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2019年12月27日

【ダンモの話 1】

石川県小松市在住高校2年生の時、音楽をやってみようと思いエレクトリックベースを弾き始めた。楽器は冬休みに年賀状配達のアルバイトをして通信販売で買った。雑誌「明星」の最後のページに通販の広告があり、そこに出ていた一番安いエレキベースだ。
大学生の兄と一緒にライブをするようになり、プロを志すようになった。
(今考えると、楽器を始めてから1年かそこらでプロになろうと考えるとは、何と浅はかな。でも若い頃のそういう根拠の無い自信や思い込みって大切だとも思う。何か目に見えないものに背中を押されてるようなこともあるはずだ)

「どうしたらプロのミュージシャンになれるのか?」と地方の高校生は考えた。
「早稲田大学のモダンジャズ研究会というサークルがプロミュージシャンをたくさん輩出している」と知る。

どこで見知った話なのかは覚えていない。雑誌で読んだのか(当時はインターネット以前の時代で、地方の高校生が手に入れられるそのような情報は「JAZZ LIFE」「Bass Magagine」などの雑誌くらいしかなかった)、あるいはその頃大学生だった兄やその友人から聞いたのか。

高校卒業後の進路を考えるにあたり、幼少時からピアノなどを習っていたわけではないし、裕福とは真逆の家庭環境だったので、音楽大学という選択肢は最初からなかった。とにかく、プロになるために早稲田に入ろうと思った。
家庭環境的に親からの経済的支援は受けられないことが分かっていた。高校では理系クラスだったが、働きながら進学することを考えて理系学部はやめ、第二文学部という夜間学部に入学した。昼間仕事をしながらでも通える学部だ。二文と呼ばれていた。(今はもうなくなったらしい)

入学後、早速「モダンジャズ研究会」に向かった。文学部キャンパスのはずれに「音楽長屋」なる建物があり「ハイソサエティオーケストラ(ビッグバンドジャズサークル、通称ハイソ」「ナレオ(ハワイアン発祥サークルだが当時はR&Bやソウルをやっていた)」「オルケスタ・デ・タンゴ・ワセダ(その名の通り)」などの音楽サークルが密集していた。「モダンジャズ研究会(通称ダンモ)」もその中にあった。
長屋全景.jpg
<音楽長屋>

その頃ぼくはエレクトリックベースしか弾いておらず、同時代のエレクトリックなジャズやフュージョンを指向していた。ウェザーリポートやチックコリアエレクトリックバンドなんかを聴いていた。そして「モダンジャズ研究会」も、その名の通り「モダン(現代)」で最先端のジャズをやっているんだろうと思っていた。
エレキベースを抱えてダンモを訪れたぼくは面食らった。ベースはウッドベースが基本。最初にやる曲は「枯葉」「ブルース」。ちょっと怖そうな先輩曰く「チャーリーパーカー聴かなきゃ」
最先端のジャズができると思っていたのでがっかり(チャーリーパーカーはモダンジャズの父親だが1940年代)したぼくはダンモには入部せず、結局「フュージョンマニア」というサークルに入った。
やりたかった音楽の方向性はこちらが近かった。先輩たちも凄く上手かった。そして、ぼくみたいに通販で買った安物の楽器を使っている人は皆無。あとダンモに比べるとみんなきれいな洋服を着ていた気がする。

1年そのサークルで活動した。あこがれていたチックコリアエレクトリックバンドなどの曲を演奏するバンドもあったが、ぼく自身どうも没入しきれず、また成長を実感できずにいた。なぜか。そうか「アドリブが弾けない」のだ。
ぼくは「フュージョンのコピーバンド」をしたいわけではなかった。もちろん上手い先輩たちは、コピーばかり演奏していたわけではなく、アドリブで演奏出来る人もいたに違いない。でも、ぼくは、このままでは自分がやりたい音楽の本質に近づけない気がしてならなかったのだ。

「ダンモ」を思い出した。そうか、あの怖そうな先輩が言っていた通り「チャーリーパーカー」とか「枯葉」とか「ブルース」とかが基本なのか。

思い直して大学2年の春に、改めて「ダンモ」に入部してウッドベースを弾き始めた。20歳になる年だった。
ちなみにダンモには学外からも入部できたし、ぼくのように2,3年生での入部や社会人の入部も珍しくなかった。
そんな背景も有り、ダンモでの学年は実際の年齢や大学の学年とは無関係に、ダンモでの経験年数のみを基準に「1=C(ツェー)年、2=D(デー)年、3=E(イー)年、4=F(エフ)年」と呼ぶ。ツェーとかデーというのは音名(ドレミファ)のドイツ語読みである。(Eだけ英語読み。多分エーだと紛らわしいから)

ところで、学外からでもダンモに入部出来たのならわざわざ早稲田大学に入る必要もなかったわけだが、当時はそんな情報は知りようが無かった。今はネットですぐに情報を得られる。さてどちらがよいのか、というのはまた別の話だ。

ウッドベースをはじめて1ヶ月後にパーティー演奏の初仕事があった。まだぎりぎりバブルの時代だった。ギャラはツェー万(金額も音名読みするのだ)。まだ「Fのブルース」と「枯葉」しか弾けない。いや、その2曲も「弾ける」といっていいのかはなはだ疑問。とりあえずコード進行は覚えて、何となく「弾けているふり」が出来た程度だろう。そんな状態でも演奏の仕事があったのだからありがたい。

とまあ、そんな感じで、当時としては思いがけずジャズの道にはいっていくことになったのだ。

(つづく)
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by iidamasaharu

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