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2020年01月31日

【ダンモの話 3】

前回まで2回にわたって大学ジャズ研の昔話を書いてきたことには理由がある。

卒業(してないけれど)後、一部の同期友人を除いてほとんど縁がなかったダンモ関連のつながりが、2011年、東日本大震災の年に開催されたダンモ50周年イベントをきっかけに再起動し始めた。

当時ぼくは北海道小樽に住んでいた。
1998年に東京を離れ、小樽でビアレストランのライブショーバンドやイベントのプロデュース、音楽レーベルの運営という仕事が中心になっていて、演奏活動もしてはいたがジャズの世界からは少し距離があった。
「ジャズシーン」的なところから離れている引け目と同時に、自分が「ジャズベーシスト」とカテゴライズされることへの抵抗を感じていた。
共演しているミュージシャンがぼくのことを「ジャズベーシストの飯田さん」と書いているを見て「ジャズ」という言葉を外して欲しいと頼んだこともある。
もちろんジャズ自体が嫌なわけではなく、世間で言われる「ジャズ」というイメージの枠や、その保守性に抵抗があったのだ。
先に書いたダンモ時代の話には出てこないが、その後出会って大きな影響を受けた師匠の故・齋藤徹さんや廣木光一さんとの共演で、タンゴ、即興、邦楽、ブラジル音楽など、一般的なジャズの枠とは異なる、しかし圧倒的で強烈な音楽体験があった。そしてそれを経てあえて東京を離れてからも自分のオリジナルな音楽を追求したかったぼくには「ジャズ」という言葉、あるいはその言葉に基づいてリスナーから期待されるイメージは足かせのようですらあった。
「ダンモ」も然りである。
そういう事情や思いがぼくの中に「ダンモ的なもの」への抵抗感を醸成していた。

ダンモ50周年イベントは、プロとして活躍している第一線のミュージシャンや創成期の先輩方が多く出演する大イベントだった。
タモリさん出演ということもあり、OBだけでなくその知人友人含めかなりの動員規模のイベントになった。
ぼくはというと、現役時代からほぼ20年が経過して、一旦生じた「ダンモ的なものへの抵抗感」も、よく考えると大したことでは無いかも、と思い始め、参加することにした。
同期友人や近い世代の先輩後輩とも再会でき、イベントも大盛況で、昔はこわかった先輩も優しかったりして、ぼくの中の「ダンモ的なものへの抵抗感」はゆるやかに溶け始めた。

その後ぼくは東京に戻り、時折ダンモOB会主催のセッションやイベントに顔を出すようになった。
数年前から縁あってOB会役員会の末席に名を連ねることになり、イベントの企画やWEBサイト制作などに関わっている。
50歳になるぼくだが、役員の中で最年少だ。

ダンモOB会は、年代をダンモの卒業年度を基準にしていて、ぼくは93年卒という代。
実はぼくたちより数年下からしばらくの間の代では、OB会との交流が途切れている。
何か原因やきっかけがあるのかもしれないが、よく分からない。
ぼく自身が先述のように、ダンモに対して心理的な壁を感じていたので、それが言葉にできないようなものだとしても何となく理解出来る気がする。
役員最年少ということで若い世代のOB諸氏とOB会をつなげることがぼくのミッションのひとつだと勝手に考えている。

去年あたりから、直接知っている後輩の方々に少しずつ声をかけて、イベントやセッションに来てもらっている。
ぼくと同じようにダンモへの何か消化できない感情を持ち続けていた方が、参加することでその何かが溶け始めるようなこともあるはずだと思っている。

来年2021年には60周年のイベントが行われる予定だ。


今「市場としてのジャズ」は縮小の一途だ。
しかし一方で「即興性と主体性を重んじ、同時代の新しい要素を取り入れ拡大していくジャズという音楽(これは今ぼくが考えるジャズの定義だ)」は、これからますます重要なものとなり、目に見えない形で遺伝子の様に世界に拡がっていく時代を迎える。

そんな中、ダンモOB会は、学生時代の数年間を真剣にジャズ演奏に向き合って過ごした体験をもちながら、今、様々な分野で生きている者たちが世代を超えて集まる場。何か意味があるかもしれない、いや、ないかもしれない。

最後のメッセージが、ごくごく一部の方がターゲットとなってしまうことをお許しいただきたい。

今あまりOB会とご縁のないダンモ出身の皆様、おいおいお声をかけさせていただくので、是非合流してください〜

2020.1月
飯田雅春 拝

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2020年01月30日

【ダンモの話 2】

「ダンモ」が「モダンジャズ研究会」の通称であると前回書いた。

これは音楽業界でかつて多用された「逆さ言葉」である。
「モダン」がひっくり返って「ダンモ」となる。他にも「コーヒー」→「ヒーコー」、「ギャラ」→「ラーギャ」、「逃げる」→「ゲルニ」など。他にもいろいろ例を挙げたいところだが、教育上あんまりよろしくない言葉しか思い浮かばないのでこのくらいにしておく。
あと、正直言うとこの逆さ言葉、ぼくはちょっと苦手で、固有名詞として定着している「ダンモ」以外あんまり使う事はなかった。
ちなみに逆さになった言葉は抑揚はつけずに発音することが基本で「コー(→)ヒー(→↓)」が「ヒー(→)コー(→)」となる。
「とう(→)きょう(→)」「でん(→)わ(→)」とかと同じ。
ダンモ初期のメンバーであるトランペットの森田先輩は、逆さ言葉の愛称がそのまま芸名「タモリ」となった。
おそらく日本で一番知られた逆さ言葉だ。そして、この場合だけ、先に挙げた抑揚は例外となる。

さて、高校時代に楽器を始めてから大学2年でダンモに入部しウッドベースを弾き始めるまでを書いた前回の続きだ。

夏休みには志賀高原で合宿があった。
合宿初日には、C年(ダンモ1回生、ツェーネン)が1人ずつ先輩の中に加わって演奏する「オーディション」がおこなわれ、その結果をふまえて先輩がC年バンドの編成を決める。
その段階でC年の人数は、ベースがぼくと鈴木進輔君の2人だけ、ドラムとピアノが各10人弱、ギターとボーカルが各2,3人、管楽器が10数人で合計40人くらいだったか。もう少し多かった気もする。
バンドは10組ほどとなり、C1〜C10などと番号で呼ばれる。ベースが2人だけだったからたくさん弾かねばならず、指の血豆が割れたりもして大変だった記憶がある。

ダンモ合宿ではもうひとつ特徴的なイベントがある。
最終日に行われる「演芸会」だ。
お笑いショーみたいなもので、大学生が合宿でやるわけだからお下劣な方向になることは簡単に想像できると思う(例えば新入生の女子にロウソク持たせてSMショーもどきとか)。
そして、その演芸会と絡めてとある通過儀礼が行われる。
こちらはあまりにもくだらないので内容はもちろん呼称すら書けない。
ここでは仮に「KM」とする。性的な要素を含み、かつ羞恥心を捨てさせることが目的とか言われそうな内容だ。「早稲田 ダンモ 儀式」で検索すると情報があるかもしれないが決して調べないようにお願いしたい。
ぼくは「なんで音楽やりにきたのにお笑いショーをやんなきゃいけないのか」という反感が強く、最終日の演芸会はダンモE年の時までずっとボイコットして1日早く帰っていた。
面白い人が面白いことをやってるのをみるのは楽しいが、別にやりたくも無い人が無理やり力で強要されるような事は大の苦手なのだ。
当時はハラスメントなんて言葉はまだ無かった。
そして「KM」についてもぼくだちの代の頃に廃止されたと記憶する。(このあたりは同期ジャーマネのサックス奏者浅川宏樹君が詳しいはず。)
「演芸会」はその後どうなっているのかはちょっとわからない。

音楽のことも書かなければ。
先輩がとにかく上手かった。
ぼくが入部した年のレギュラーグループは、サックス 高野浩雄さん、ピアノ 川村結花さん、ベース 土井孝幸さんと佐藤ハチ恭彦さん、ドラム 清水達生さん。
残念ながらサックスの高野さんは2014年に病気で急逝したのだが、他の皆さんは現在それぞれの世界で大活躍している素晴らしいミュージシャンばかりだ。
当時のぼくにとっては、プロとしても何の遜色も無いようなレベルの演奏だった。
技術も個性もあってエネルギッシュな演奏には聴くたびに圧倒された。
そんな中、ぼくはへなちょこなくせに気概だけは十分で、先輩から見たら随分と生意気な新入生だったことだろうと思う。

その後、途中でぼくは大学生ではなくなったが、E年になってレギュラーグループを努め、ダンモだけは最後までまっとうした。
レギュラーグループでは学生の分際ながら夏に演奏ツアーの機会があり、北陸、関西、四国で演奏した。
実家がある小松に近い金沢の「もっきりや」でのライブでは、当時闘病中でその翌年に亡くなった父に演奏を聴いてもらえたことが忘れられない。

ダンモ在籍中から演奏の仕事を始め、F年になって引退(普通は皆、4年生で就職活動に取りかかるのでE年までで引退するのが常だった)したころから、新宿のクラブ(お姉さんがいる方)でのハコ仕事(毎日固定のお店でレギュラー出演する仕事のこと)と音楽専門学校での講師の仕事で生活していくことになった。
1992年頃のこと。

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